堺って…
堺って実は大きな都道府県のひとつだったんですね。
過去には和泉、河内と奈良県全域が堺に統合されてたんですね。
今回の選挙で、ググッて見たらビックリ。
以下ウィキペデァより
概要
江戸時代には天領で、大坂町奉行が管轄した堺の町地と旗本領であったその周辺は、江戸幕府の崩壊後に徳川氏から朝廷に接収されていたが、1868年(慶応4年)に入ると堺事件の発生などもあり、新しい行政組織の設立が急がれることとなった。そこで同年6月22日に設置されたのが堺県である(一説には当初は「境県」が正式名称だったとも言われている)。
初代知事は官選で小河一敏であった。上からの「仁政」すなわち民に情け深い政治をすべきだとの強い儒教思想の持ち主で、独自の県治方針を抱いていた。大雨で氾濫する大和川の治水工事を、官費では間に合わないので、自分や幹部の年俸を拠出して積極的に進めた。また、県札を発行して経済流通の活性化を図ったり、全国の小学校開設に先立って郷学校を再興し、県学として近代教育のスタートを切るなど、中央の統制を越えて積極的な地方行政を押し進めようとした。このため明治政府と対立し、明治3年10月に早々と免官になってしまう。
第2代の税所篤県令の時代にも、県師範学校・医学校・病院・女紅場(女学校)・堺版教科書の発行など教育行政や、堺灯台の建造など港湾改修、紡績所・レンガ工場の建設、堺博覧会など商工業振興のほか、浜寺公園、大浜公園の開設など、先進的に県政が進んだ。
1881年(明治14年)に第2次府県統合に伴い大阪府へ合併され廃止された。これは、廃藩置県後の県の整理の一環とも見られるが、全国的に見ればその作業は完了しており、逆に大きすぎる県の分割の方に問題が移りつつあった中での合併であった(現実に堺県の合併以後、北海道の再編と太平洋戦争後のアメリカ軍の軍政施行によって一時廃止された沖縄県以外に都道府県が廃止された例はない)。そのため、府域が極めて狭い上、銀目廃止令による両替商の相次ぐ倒産や大名貸の不良債権化による経済の地盤沈下に直面していた大阪府を、「府」にふさわしい規模にするために行われたと考えられている。
その後、やはり府域が広大すぎることが問題視され、1887年(明治20年)11月4日には、かつて堺県の一部となっていた奈良県が再度分離されることになる。沿革[編集]
8月2日 - 河内県を編入。
1873年(明治6年) - 日本初の公立公園となる浜寺公園が開園。
1876年(明治9年)4月18日 - 第2次府県統合により奈良県を合併。
1881年(明治14年)2月7日 - 第2次府県統合により大阪府に合併。同日堺県廃止。
管轄地域[編集]
第1次府県統合以前[編集]
八上郡のうち - 11村(館林藩領)
河内郡のうち - 4村(旗本領)
大県郡のうち - 2村(旗本領)
渋川郡のうち - 17村(幕府領1村、淀藩領12村、高徳藩領4村)
交野郡のうち - 2村(旗本領)
讃良郡のうち - 4村(幕府領1村、旗本領1村、郡山藩領2村)
若江郡のうち - 8村(旗本領4村、高徳藩領2村、沼田藩領2村)
古市郡のうち - 5村(伯太藩領1村、下館藩領5村)
石川郡のうち - 20村(旗本領1村、下館藩領19村)
錦部郡のうち - 6村(幕府領4村、旗本領2村)
南郡のうち - 7村(幕府領)
第1次府県統合以降[編集]
河内国一円
和泉国一円
歴代知事[編集]
1871年(明治4年)11月22日 - 1881年(明治14年)2月7日 : 県令・税所篤(前堺県知事)
外部リンク[編集]
堺市公式サイト
だから何なんだ?
でも、こうやって見てみたら先進的な制度改革してきたところなんですね。
改めて感慨深い町だとつくづく思ったわ。
実は本人もビックリしてる次第でして。
こんなに広い統治エリアを所存していたなんて今の今まで知らんかった。
ってことは、いつも釣りに行く天川も過去には堺県だったんだ。
地元?ってことですわね。
広かったんだ、堺。
南蛮貿易で稼いだ金子は桁外れな金額だったんでしょうね。
小さな港の堺港からは信じられないですね。
以前ブログでも書きましたが、堺東にある銀座は銀座の発祥の地でして、その後に江戸に移り、銀座となったのも有名な話。
さぁ今回の市長選挙どうなるんでしょうねぇ。
当事者からしたら、目くそ鼻くそ。
どっちもどっちだけどね。
新聞では、現職有利だそうですわ。(爆)
俺、知らね~。